音は、空気の中で生まれ、輪郭を持つことなく身体に触れます。そして、ほどけるように消えていきます。例えば、写真が光を受け止めることで世界の痕跡を像に結ぶものだとすれば、音はその痕跡をかたちに留めず、時間の中に発生させます。shiduraiは、その消えていく震えの中で、世界がまだ動いていることを確認しています。
古代ギリシャの自然哲学(Natural philosophy)では、自然を知ること、物質に触れること、見えない力を感じ取ることは、一つなぎの実践でした。電気(electricity)という言葉は、古代ギリシャ語で琥珀を意味する語(ἤλεκτρον, ēlektron)に由来します。琥珀を擦ると、埃や軽いものが引き寄せられことから、当時の哲学者は目の前の物質に目に見えない力が働いていることを観察していました。音もまた数と比の問題として扱われ、弦の長さや間隔の中に、世界の秩序に触れる手がかりが探されていました。
shiduraiの過去を振り返れば、土と戯れ、全身で世界を受けとめていた子どものころ、知ることと触れることが離れていなかった感覚へ通じる、かすかな気配がありました。そのつながりは今では限りなく薄まったように感じます。けれども、部屋の中に別の接触が生まれる条件を整えることはできます。
アナログシンセサイザーに触れることで応答する電気の揺れは、回路を経由して周波数となり、スピーカーを通して空気の動きへ変わります。その動きは部屋に広がり、残響となって、身体へ戻ってきます。
けれども、部屋は自然の代わりにはなりません。shiduraiが部屋の中で触れているのは、電気の揺れを空気の震えへ変える装置です。その電気は、雷のようなむき出しの自然として届くのではなく、発電、送電、規格、回路を通って身体にたどり着きます。いくつもの媒介を通り、最後に空気の震えになる。
shiduraiの生を根底から支えているはずのものたちと、いま居る場所の間には大きな裂け目があります。その裂け目の中をさまよいながら、音を出している。そういう感覚があります。
そこで震えている音は、どこか偽物のようです。自然的なものを求めながら、自然そのものではないものに触れている。世界と直接つながる感覚を求めながら、実際には無数の人工物を通過している。その矛盾は、shiduraiの隠すことのできない現在地です。けれども、その矛盾の中に、今という時代と身体の接点を見出そうとしています。
アナログシンセサイザーは、その矛盾を抱えた装置です。内部では電圧が不規則に揺れ、温度や湿度、手の微細な動きによって音が変わっていきます。制御できない揺らぎに触れることは、この装置を扱う理由のひとつです。
哲学、科学、技術、音楽。それぞれが制度と専門性の中に置かれている時代をshiduraiは生きています。
それでも、この装置が発振する音の中に身を置いていると、部屋の内と外の境界が曖昧になり、バラバラになったものたちが近づいていくように感じることがあります。部屋の中にいながら、身体から遥か遠くのものへ触れているような時間。それは、言葉より先に身体へ届く感覚でもあります。
音は、痕跡を形に固定することなく、身体に触れて消えていきます。そのとき、記録とは異なる確認という姿勢が生まれるのです。